ツール・ド・おきなわ2008 レースレポート

2008/11/25
山田敦(S59政経)

 生まれて初めて沖縄へ行ってきました。11月9日、自転車レース「ツール・ド・おきなわ市民85km」に出場しました。台湾で自転車レースを走るようになって5年。日本のレースはこれが初めて。さて結果はいかに。

 ツール・ド・おきなわは日本の市民レースでは最高峰と位置づけられる大会。プロレベルの国際レース(男子200km、ジュニア130km、女子85km)、市民レース(男子200km、130km、85km、50km、シニア50km、女子50km)と多くのカテゴリーに分かれている。沖縄本島北半分の海岸線や山岳道路をめぐるコースは厳しいアップダウンの続く相当にタフなものだ。シニア50kmを除いて自分が普段出場している台湾でのレースのように年齢別のクラス分けはない。年齢に関係なく自らの走力で純粋に(ガチンコで)競うことになるから年長者になるほど厳しいレースとなる。

 一度は出たいと思っていた大会だが今回思い切って出場したのには理由がある。一つは今年台湾で強化合宿をした日本女子ナショナルチームのみなさんとの約束。私が参加した市民85kmは国際女子85kmと全く同じコースを時間差スタートで走ることができる。こんなチャンスはめったにないし、若い女の子たちから「ぜひ一緒に走りましょう。」と誘われて(まあ社交辞令だとは思うが、、、)、これを断るようでは男がすたる。必ず出るといった手前、逃げるわけにはいかない。そしてもう一つ、各クラス合わせて20数名が参加した台湾人選手たちの通訳としてお役に立てればという思いがあった。普段のレースでお世話になってばかりいるので。

 レース前日の土曜日は受付を済ませた後、台湾の選手達とコースの後半3分の1ほどを軽く往復で試走してみた。スコールのようなにわか雨に何度も打たれずぶ濡れになった。明日はさらに天候が悪化し気温も下がるとの予報。間違いなく雨のレースになるだろう。沖縄の道は雨が降ると滑るので気をつけて、と多くの人から聞かされていた。路面を観察してみるとアスファルト舗装に使われている石の一粒一粒がなぜか異様に大きく、指でなぜるとその表面はツルツル。急な上りの立ち漕ぎでは後輪がいとも簡単にスリップする。下りコーナーのブレーキングも相当慎重にいかないとマズそうだ。

 市民130km、85km、国際女子85km参加選手の多くがこの日は大会指定のJALオクマリゾートのコテージに宿泊。自転車レースでこんないいとこ泊まっていいのかな。久しぶりに再会した女子選手たちと豪華なバイキング料理で楽しい夕食。いつもながら彼女達の食べっぷりはスゴイ。去年もこのレースを走っている彼女達からコースの特徴などをご教授いただいた。天気が心配だが泡盛を一合ほどロックであおって早目に床に付いた。

 レース当日、5時起床。外はまるで台風のような横殴りの大雨。こんな天気でもレースは開催されるのだろうか、自分は本当にそのレースを走るのだろうか、最悪の天候を前にして、起き抜けの頭ではまだこれを現実のこととして捉えられない。雨が少しでも小降りになることを願うばかり。愚痴を言っても始まらない。朝食をとりあわただしく身支度を済ませスタート地点へ向かうバスに乗り込んだ。車窓から見える東シナ海はまるで真冬の日本海のように白く波立っている。色とりどりのサイクルジャージやウインドブレーカーを着込んだ選手たちでバスの車内は色彩的には華やかだが、悪天候に対する不安とスタート前の緊張感でみな言葉少な。まるで囚人移送車のようだ。

 7:30、沖縄本島最北端、辺戸岬に到着。ここが85kmのスタート地点。早い時刻に別の場所からスタートしている国際200km、市民200km、がここを通過した後、女子国際、市民85kmがスタートする。スタートまで2時間あまり。売店や休憩所の軒先で雨風をよけて待機するがかなり寒い。長時間のレースに備えてスナック菓子やパンで最後の栄養補給。わずかしかないトイレには順番待ちの長い行列。

 8:30、スタート予定時間まで1時間。少しウォーミングアップしようと国道本線まで出てみた。するともう100人くらいの選手が冷たい雨の中、待機ラインの前で整列している。360人と人数が多いのでレース開始直後の位置取りは重要。アップを諦めて自分もこの隊列に並ぶことにする。

 9:30、悪天候のため国際200kmの通過がかなり遅れそうだとの情報が入る。一般の交通を完全に遮断して行われるこのレースには数箇所のチェック関門が設けられ大会と警察との間で厳しく関門閉鎖時間が決められている。スタート時間が遅れればそれだけカット時間が厳しくなる。予定より20分ほど遅れて国際200kmの先頭集団が自分達の目の前をフルスピードで通過。そして市民200kmは前年優勝者の高岡選手(慶応自転車部OB)がまさかの単独アタックで通過していく。後続集団と1分半の差。あと残り85kmを1人で逃げようというのか?これが日本の市民レース最高峰の走りというものか。あまりに壮絶な彼の走りを目の当たりにして鳥肌が立つほど心が震えた。ますますカラダが冷える。

 9:50、女子国際85kmがスタート。このクラスは20数名と少数精鋭の戦い。世界選手権出場の山島選手、直前のジャパンカップで優勝した針谷選手、鹿屋体育大学のスプリンター川又選手など台湾合宿で仲良くなった5人の選手が出場している。彼女達はロンドンオリンピックを目指す次代のホープ。みんな優勝目指してガンバレ!

 9:55、雨の中一時間以上並んでカラダは完全に冷え切ってしまった。降り続く雨の中いよいよ市民85kmがスタート。長い坂を下りきったところで先導車が離れレースは一気に高速集団走行に入った。前走者の後輪が巻き上げる水しぶきが激しく顔面に打ち付ける。できるだけ前へ出たいが思うような進路がとれない。自分の位置は100番手以下のようだ。スタートから3km、300人以上の大集団は追い風にも乗って50キロ以上のフルスピードで長いトンネルに入った。その直後、アクシデントは起こった。

 その落車は自分よりも少し前で何の前ぶれもなく突然、まるでドミノ倒しのように始まった。このままでは巻き込まれる。冷静に対処しなければ。重心を後に引いてブレーキに手をかけた瞬間、両輪が一気に滑った。前で転んだ選手と自転車の山に突っ込んだ。一体何が起こったのか、スタートからたった3kmでこれかよ、まさかこれでリタイアか、わざわざ沖縄まで来てそれはないだろ。落としてしまったボトル2本を拾い、外れたチェーンを掛けなおす。幸い自転車に大きなダメージはない。右腰を強打したようだが何とか走れる。さあ、マイナスからの再スタートだ。一漕ぎ、二漕ぎ、とまたしても直前の数人が落車。避けようにもどうしようもなく自分も落車。この2回目の低速落車で右腰の同じ部分をしこたま打ったのが効いた。ひどすぎる。なぜこうなるのか。トンネル内の路面を指先で触ってみて驚いた。コンクリート舗装の表面が摩滅してまるでプールの底に水をまいたような状態。摩擦係数ほとんどゼロ。これじゃあ自転車でなくても靴で歩いたってスリップする。トンネル内は自転車がぶつかる金属音と悲鳴、怒号が渦巻き、正に地獄絵のような状態。けが人も多数出ているようだ。結局、集団の100番手くらいから後は自分を含めてほぼ全員、恐らくは200人以上が一度に落車転倒するというギネスブック級の大惨事となってしまった。あとからわかったことだが10分ほど前に通過した市民200kmでもまったく同じ状況で大落車が発生したらしい。沖縄のトンネル恐るべし。

 地獄トンネルから何とか抜け出した時点で、落車を免れた100人ほどの先頭集団が湾曲した入り江の向こう側、1kmほど先まで達しているのが見えた。もう上位での完走は望めそうにないな。膝、肘、腰など何箇所か出血しているがどれもスリキズ程度。右腰の打撲はかなり痛むが何とか走れる。残り80km、諦めずに全力を尽くそう。

 レースは間もなく海岸線から内陸へ折れ最初の上りに差し掛かった。ヤンバルの森とよばれる原生林の中を縫って走る県道2号線。周囲は天然記念物ヤンバルクイナが生息する鬱蒼たる熱帯原生林。まだまだレース序盤。ここで上りの得手不得手がはっきり出て選手の順位が大きく入れ替わる。無理せずマイペースを心がけ淡々と上っていく。抜かれる人数より抜く人数の方が多い。少しずつ順位は上がっていると思う。

 峠を下りきった先は東海岸。ここからの中間部分約30kmは複雑な勾配のアップダウンを繰り返す丘陵地帯。初めて走るコース、次から次へと現れる短い上りは体力的にも精神的にもかなり堪える。前も後も知らない選手ばかり。国際200km、市民200kmから落ちてきた選手、130km、女子国際、各カテゴリーが入り乱れての混走状態。ペースを上げようとできるだけ周囲の選手に声を掛けながら走った。そしてやっと前日の試走で走った場所まで戻ってきた。ここから沖縄本島を今度は東から西へ横断する最後の上りが勝負。

 気持ちを切らさぬよう、一定の出力を心がけて最後の難所、源河の峠を上って行く。落車の衝撃からか心拍数計が狂ってしまい心拍数はまったくわからない。経験と勘を頼りにギリギリ限界のペース配分を探りながら上り続ける。峠の手前で足が攣りそうになる。あと一息、何とか持ち直して峠を越えた。スリップしない限界スピードで濡れたコーナーを駆け下りていく。



名護市ゴール直前での走り
  西の海岸線まで下ればあとはゴールまで15kmの平坦路。約300m前方に20人ほどの集団が見えている。何とかあそこまで追いつきたい。しかし、残念ながら単独で追いつくだけの力はもう残っていなかった。後続選手を待つべくペダルを緩めた。だが、後から来る選手の多くはもはや疲れきっていて先頭交代するには物足りない状態。結局、名護のゴールまで最後の5kmは一人旅となってしまった。どのくらいの順位なのかは見当もつかない。ゴール直前、雨もようやく上がって明るい日差しが差してきた。水しぶきを上げながらゴールラインに飛び込んだ。

 結果、クラストップから19分遅れ、女子国際の優勝タイムからは4分遅れの2時間38分9秒、市民85km出走360人中75位。時間内完走率は、200km50%、130km30%、85kmは約60%という低い数字が悪天候の厳しいレースだったことを物語っている。自分にとってもこれまで台湾のレースでは経験したことがないほどタフで苦しいレースだった。自分と同じ48歳で2人、自分より少し前でゴールしている選手がいたが、それより年上で上位に行った選手はいなかったようだ。不運な落車さえなければ、という思いはあるもののまずは力を出し切れたと思う。女子国際は台湾ナショナルチームの曾選手がゴールスプリントを制して優勝。(これは大変な快挙!)日本勢は針谷選手の4位が最高。6位に山島選手が入った。

 レース終了後の閉会式とパーティーではふるまわれた沖縄料理と地元名護名産オリオンビールを心行くまで楽しんだ。どうやら雨も上がった。今夜の宿までは海沿いの国道を約20km南下する。打撲した右足が痛むがバスに乗るのを断って自走で帰ることにした。これが沖縄最後の走りだ。

 レース翌日、夕方、那覇空港で台湾へ帰る一行と別れ自分ひとりだけ那覇市内へ引き返した。台北稲門会OBで故郷岐阜の先輩でもある藤井素介さんを訪ねるためだ。ケータイで連絡を取り合って国際通りの雑踏の中に懐かしい藤井さんの笑顔を発見。勤め帰りの藤井さんはノーネクタイの"かりゆしウェア"でもうすっかり沖縄の人だ。この人の肩の力が抜けたリラックスムードはいつ会っても変わらない。路地裏のスナック"ぶーめらん"(多分、西城秀樹の歌からとったんだろうなあ。)、テーブルにはママさんお手製の沖縄家庭料理風のおかずがずらりと並ぶ。席に着くや藤井さんは中味汁(豚の臓物とこんにゃくほかを煮込んだスープ)などをご飯にかけて、そのぶっかけメシをかき込んでいる。シークヮーサー(沖縄特産の酢橘のようなもの)を絞った泡盛の水割りをグーッと一息。そしてご飯をお代わり。沖縄の人はご飯を食べながら酒を飲むようでこれは台湾と似ている。思いっきり食べて飲んだ。料理はどれもやさしい味付けで美味しい。また泡盛がこれほど美味い酒だったとは。知らずに過ごした48年が悔やまれる。この日をもって芋焼酎党から泡盛党へ改宗か(そんな簡単に変わるなって)。

 このあと藤井さんの友人みなさんと大いに飲み大いに語り合った。(書き出したらキリがないので詳細は割愛させていただく。)カラオケ(今どき手がけのレーザーディスク!)は十九の春、Kiroroの曲など、知っている沖縄歌謡を歌わせていただいた。ああ楽しき哉、沖縄。那覇国際通りの夜は更け行く。

 今回のツール・ド・おきなわ遠征、自分にとっては何とも貴重な経験になった。落車のショックからかまだ来年の再挑戦のことは考えられないが沖縄という土地に対しての興味は一気に高まった。会う人、会う人みなさん穏やかでやさしくて。今度はレース抜きで行きたいなあ。沖縄一周サイクリングとか泡盛蔵元めぐりの旅とか。帰りがけ大量に買い込んだ泡盛古酒のボトルを傾けながら毎夜沖縄遠征の余韻に浸っている私です。ああ自転車最高、泡盛サイコー、おきなわ万歳!
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