「日本精神と日本語の師」 日台稲門会幹事長
石川台湾問題研究所長
高座日台交流の会事務局長

石川 公弘 様

 台北李登輝友の会の会長であり、「老台北」として名高い蔡焜燦氏に初めてお目にかかったのは、もうだいぶ以前のことだが、その初対面の場で私はぶしつけなお願いをした。

 それというのも、私が台湾高座会の黄義源氏から、一つの注文を受けていたからである。黄さんは、司馬遼太郎氏の『台湾紀行』(平成6年、1994年刊行)に登場する台湾少年工が悪玉扱いで、事実と著しく異なるという。私も『台湾紀行』が世に出たころ、幼いとき知っていた台湾少年工が、必ずどこかに登場するはずだと期待して読み、がっかりした経験がある。

 『台湾紀行』に彼らが唯一登場するのは、日本からの帰還船の船内で天然痘が発生し、一週間基隆港外に繋留されたときの話である。かいつまんで言うと、予定外の繋留で船内の食糧が乏しくなり、食事に不満をもった彼らが炊事場を占拠して問題になったが、李登輝さんだけはさすが大物、騒ぎをよそに泰然と本を読んでいたと書かれている。

 黄義源さんは、少年工が騒いだのは食事に不満があったのではなく、船内に赤ん坊をつれた大学出の夫婦がいて、オシメを常識外のところで洗ったのを、時が時だけに台湾少年工組織の衛生委員が咎めて口論となり、それを大勢の野次馬が取り巻いたのだという。

 そもそもこの帰還船「米山丸」は、二十歳を頭とした台湾少年工の組織が、外務省や神奈川県と必死に交渉して仕立てたもので、出発地が伊豆半島の下田港というのも、その辺に理由がある。台湾全島を五大隊に分け、そのうちの一つ、台北大隊が乗船していた。大隊は出身地別に更に中隊、小隊と分化され、厳しく規律を守っていたという。

 黄さんは、その点を訂正してほしかったのだが、司馬さんはこの時すでに神に召されていた。そこで私が、『台湾紀行』の水先案内人「老台北」にお願いした次第である。私は、私たちがそれを書いて世間に発表しても、読む人はたかが知れている。李登輝さんや蔡さんが書かれたものなら、何万人、場合によれば何十万の人に読まれるから、ぜひどこかで修正をお願いしたいと、厚かましく申し出た。

 司馬さんにこの話のネタを提供したのは、蔡さんではなかったのだが、蔡さんはその後出版された『台湾人と日本精神』で、台湾少年工を高く評価する文章を書いてくれた。また黄さんの願いを李登輝さんにも伝えてくれ、2002年(平成14年)に開催された台湾高座会全国大会には、李登輝前総統自らおいでになって、元台湾少年工の功績を讃えられた。一千名を超す参加者が、「台湾建国の父」の横断幕を掲げ、熱烈に歓迎したのは言うまでもない。

 そのとき、李登輝前総統は、台湾高座会の望郷の歌、「故郷を離れて」を彼らと共に歌い、ハンカチで目頭を押さえておられた。

 帰国した元台湾少年工八千人は、種々の困難にもめげず、最新鋭の戦闘機を製造していた知識と技術を活かして、台湾の工業化と経済発展に貢献したが、今は地域社会にあって、多くの人が台湾維新の尖兵となり、台湾民主化のため活躍している。自分たちが仕立てた帰還船で、李登輝さんと共に台湾へ帰国したことが、彼らの密かな誇りである。

 あの出会い以来、私は蔡焜燦さんにいろいろな面で指導を仰ぐようになった。そのたびに、蔡さんの日本と台湾についての知識と愛情の深さが、尋常でないことを知らされる。加えて日本語のセンスとその正確さ、抜群の記憶力に驚かされる。司馬さんが、蔡さんにぞっこんだった理由が実によく理解できる。

 『台湾紀行』で司馬さんは、「老台北」を「冗談とまじめの境い目がわかりにくい」人だと書いているが、全くその通りだと私も思う。
 確かに蔡さんの周囲には、いつも相当冗談っぽい、人を和ます雰囲気がある。それでいて蔡さんは、他人の話を実に丁寧に聴いておられる。常に自然体でいながら、すきがあると軽く一本「ぽん」と取る剣道の名師範のようで、すきだらけの私など、正に「形無し」状態、日本へ帰る飛行機の中では、いつも反省させられている。

 蔡さんのことを、台湾の田舎によくいる風情の人だという人がいる。蔡さんのような人が田舎にごろごろいるようだったら、台湾はとうの昔に独立していただろう。私はいま蔡焜燦氏こそ、我が日本精神と日本語の師であると考えている。
本内容は2/16メールマガジン「台湾の声」にて発信された内容を、石川公弘様ご本人のご了解を得て掲載しました。 → リンク 『台湾の声』 
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