「台湾で思う存分やってみたいこと・十字路に立つ」 宮川和子(経済3年)

 祖父が亡くなったのは、私が中学二年のときだった。それから七年間、今でも私は祖父を思い出しては、まだ見ぬ台湾を思い、言い様のない郷愁にかられることがある。

  私の祖父は台湾人だった。戦後、日本で一旗挙げようと単身来日し、菓子屋を始めたそうだ。祖父が亡くなったとき、彼の死が在日台湾人のコミュニティ紙に取り上げられていた。在日の台湾人の中ではなかなか名の知られた人だったのだと知って、少し嬉しくなった。と同時に、祖父が台湾人であることを改めて実感し、果たして私は日本人か、台湾人は私にとって外国人か、では中国人なら外国人か、と悲しみで動きの鈍い頭をぐるぐると巡らせていた。七年が経った今も、いつも頭の片隅で、台湾を思い描いている。にもかかわらず今まで一度も行こうとしなかったのは、台湾を「外国」と感じてしまうことへの恐怖感からではないかと、最近は思うようになった。

  祖父が台湾から運んできた一番大きなものは、食文化だ。まず挙げられるのがお菓子。月餅を始め、中華風のクッキーやアヒルの卵を使った菓子などが、今でも父が継いだ菓子屋で作られている。手前味噌だが、横浜の中華街に並んでいる月餅とは比べ物にならないほど、祖父や父が作る月餅はおいしい。それからお餅。黒砂糖の入った餅と大根で作った餅がある。これらも商品として今でも作っている。「旧正月」に食べる習慣があると聞いた。料理も、祖父は得意だった。「コンマ」と呼んでいた豚の固まり肉と大根、ネギ、卵の煮物。高菜と鶏肉、木耳のスープ。祖父の作る料理は、日本人が想像するところのいわゆる中華料理ではなく、でも和食でももちろんない。何料理に分類すべきか、私にはわからない。それらは私たち家族にとっては、祖父という伝達経路しかもたない「台湾にルーツをもつ料理」だったのだと思う。今でも、私も母も、見様見真似で作っている。我が家の人気メニューだ。

  私は、自分自身がクォーターである割に、「食」以外には台湾の言葉にも、慣習にも、あまり触れた経験がない。祖父は流暢に日本語を話す時代劇ファンだったし、祖父以外の台湾人と触れ合う機会は数年に一度親戚に会う時ぐらいだった。まだ小学生だったころに台湾の親戚が訪れて来た日のことも、お小遣いが真っ赤な封筒に入っていて驚いたことくらいしか覚えていない。しかし、この食文化だけは、二十一年間、決して大げさな言い方ではなく、「私」を形成する重要な要素であり続けている。それは日本人とも台湾人ともつかぬ曖昧な自分にとって、「日本人」では足りない何かを埋めてくれるものだったのかもしれない。しかしこの食文化は祖父が伝えてくれた台湾だ。私は過去の、祖父が運んできた台湾しか知らない。

  台湾で私が思い切りしたいこと。それは祖父が伝えてくれたこの食文化の「現在」に直に触ること。どんな人が、どんな場所で、どんな会話をしながら、どんな食事をしているのか、自分の体で確かめること。そして、ずっと受身に、向こうからやってくる台湾とだけ向き合ってきた自分を、自ら台湾へ向けさせること。アイデンティティーなんて流行り物を探すのをやめ、自分の「足場」を創り直すこと。それらは、自分の知らない「台湾」への恐れ、祖父の母国を「外国」と感じる恐怖との決別でもある。

  国籍やエスニシティーは確固としたテリトリーを持ち、どっちつかずの私に押し迫ってくる感覚がある。生まれたときに与えられた「日本人」という国籍も、なんだかむずがゆいような、不完全なのに余りがある感覚を私に与える。もちろんだからといって、台湾人になりたいわけではない。

  私は、文化のグラデーションの一ピースになりたい。「日本文化」「台湾文化」という言い方が存在する以上、文化ももちろんテリトリーを持っている。しかしその境界線は、国籍やエスニシティーに比べると曖昧で、他のものと要素を交換し合うことが可能な、緩いラインだ。ならば私はその中間にたち、日本と台湾の文化のグラデーションの一ピースとなりたい。そのための第一歩が、祖父が伝えてくれた過去の台湾と、現在の台湾とを、自分の手足と舌で繋ぐことだと思っている。過去と現在のグラデーション、そして日本文化と台湾文化のグラデーション。台湾で私が思い切りしたいこと、それは、この四つが交差する十字路の真ん中に、立ってみることである。

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