2003.11.10
|
土蔵の前で、伴治さんと |
我等早大生が集まりの最後に必ず歌う「都の西北」。この作詞者の相馬御風は新潟県糸魚川(イトイガワ)の人なのであります。先日機会があり、御風宅跡を訪ねて来ました。
糸魚川市は、新潟県の南端、富山県境に近い人口3万の落ち着いた町であります(もっとも静かすぎて、たばこもろくに売れないよとは地元の人の弁ですが)。明治16年、本名「昌治」の御風はここで生まれました。一人息子だったそうです。家は地区屈指の旧家で、第4代糸魚川町長も務められたお父上の本業は宮大工との事、父上作の仏像が座敷に飾ってありました。
11歳で和歌を始めるなど、文芸の才あった御風は明治35年早稲田大学に入り、39年英文科卒。その翌年−明治40年にあった創立25周年式典に際し、坪内逍遥、島村抱月が24歳だった御風に命じてできたのが「都の西北」というわけです。
|
二階書斎、後ろの掛け軸は御風直筆画 |
在学中から「早稲田文学」の編集に携わったり、詩人・評論家として或いはトルストイの翻訳など、中央で活躍していた御風は、大正5年全てを捨て故郷糸魚川に帰ってきます。時に年齢33歳。67歳で永眠するまで暮したのが、今県史跡に指定されている「御風宅」という訳です(この辺は火事が多いため、御風の生まれた当時の家屋は焼失したとの事)。
家は昔風(当たり前か)の和室建築ですが、入り口に洋間の応接室もあります。大変細長い造りの家屋で、奥に土蔵が二つありました。階段はとても急。二階の気持ちよさそうな表八畳間が、御風の書斎だったとの事ですが、昇り降りシンドク無かったのかなァ。
さて、新潟に帰ってきてからの、御風の最大の功績といえば、何と言っても良寛の研究です。我が新潟では良寛の人気が高く、その研究書の出版も盛んですが、これほど世に知られる切っ掛けになったのは、御風の「大愚良寛」などの著作だったそうです。また、早大の同級生だった会津八一とも終生親交を結びました。因みに会津八一の生家は私の育った新潟市の実家から、歩いて2〜3分の所にあります。八一の生家は旅館だったそうですが、こちらは、繁華街のど真ん中にあるため何も残ってなく、ただ生家跡と言う石碑があるばかり。しかし新潟市の浜辺に、緑鮮やかな防風林に囲まれた立派な八一記念館があります。
|
玄関前 |
御風宅は、糸魚川駅から徒歩5分。見学の際は、向かいに住んでいる相馬伴治(トモジ)さんにお願いして中を案内してもらう仕組です。伴治さん、相馬家の分家筋の方だそうですが、名付け親は御風。付きっ切りで家の中を紹介してくれ、また御風の思い出まで、懇切丁寧なガイド振りでした。しかも、立派なパンフレット(ご察しの様にこのリポートも大部分それからパクッてます)までいただいて、入場料は100円−安い!
新潟は、関東から見てどん詰まり、その南端の糸魚川では、皆さん行く機会も少ない事でしょうから、長々とご紹介した次第です。今度校歌を歌う時に、少しでも御風の事を思い出すよすがにして頂ければ幸いです。
細井政明
|